夢見る間は















部屋のカレンダーを見た。明日は関東大会決勝。相手は立海大附属。これまでで、多分最も厳しい試合になるだろう。データがなくても、それは肌で感じ取れる。

カレンダーから視線を滑らせ、写真の上で止める。今よりだいぶ体が小さくて頼りない俺と、さらに小さくて細い男の子がいた。二人が持っているものは、確か初めて取った金メダル。

「…蓮二」

俺はしばらく写真を手にとって眺めたが、既に時間は翌日の日付になっている。早く寝なければ、と思いベッドに潜る。が、やがて来る決勝のことを考えると、瞼は下りてこない。

テニス。試合。蓮二。この三つが俺を眠らせない。それでも無理矢理目を瞑ると、妙な夢を見た。イヤにはっきりした夢だ。










今住んでいるところより、さらに郊外。そこにある賃貸の一軒家に、俺と両親は引っ越してきた。確か、小学4年の春休み。そこには2年くらいしか住めなかったけど、俺にはとても思い入れがある。家の間取りだってはっきり覚えている。

俺の部屋として宛われた8畳間の窓からは、隣の家の玄関と奥に続く庭がよく見えた。両親が慌ただしく荷ほどきをしている間、やることがない俺はそこから隣の家を観察していた。体のいい覗きだ。

俺がそこを見ていたのは、当然何かおもしろいものがあったからだ。俺はただなんとなく窓の外を見る、なんてことはできない。何か興味を引くものがなければ、よく見ようなんて思わない。

それは、子供。多分俺と同い年くらいで、俺と同じくらい背の高い子。ただ、俺よりもっと細くて髪が長かった。女の子だろうか。その子が、庭でお母さんと花の世話をしている。

別に普通の光景なんだけど、俺は飽きずにずっとそれを見ていた。俺は熱中すると誰かに止められるまでそれをし続ける。この日も、朝9時には新居についていたのに、親が昼飯に呼びに来るまでずっと窓にへばりついていた。立てていた膝は固まり、伸ばすと嫌な音がした。

遅い昼飯だったが、俺は空腹を感じていなかった。何かにハマっていると、いつもこうなる。食事中もそのことばかり考えて、食事に集中できない。このころは両親も俺のそんな性格を把握していたから、怒られはしなかったけど。あまり褒められたものではないだろうな。

昼飯の間、両親は近所への挨拶回りについて相談していた。両隣と向かいの家に行けばいいだろうかとかなんとか。あの子がいたのは左隣。もし、俺も挨拶回りについて行ったら、あの子と知り合いになれるかもしれない。もしも気が合えば、友達にだってなれるかも。

母親もそう思ったようで、俺について来るかと聞いてくれた。この近所の子は学校も同じだから、挨拶しておきなさい、って。でも俺は、さっきあんな事を考えていながら、うんとは言わなかった。

両親は俺を置いて出かけた。俺はまた自分の部屋に行き、窓の前に跪いた。バレて面倒なことになるといけないから、できるだけ頭を乗り出さないようにして、隣を見た。丁度玄関にはうちの親がいて、あの子のお母さんはその応対に出ていた。でもお母さんしかいない。

あの子を探していると、玄関の脇のガレージが開いた。中から黒いセダンが出てきて、重厚な音を立てて道路に出て行った。運転席にはお父さんらしき男の人、そして後部座席にはあの子がいた。どこに行くんだろう。










それから少し経って帰ってきた両親は、俺にとんでもないことを言った。明日から近所のテニススクールに通え、と。

それまで何度か同じようにスポーツをやらされたが、俺はどれも身にならないままやめた。上達が遅くて、飽きたんだ。それでも両親は俺に何かスポーツをやらせたいらしく、それが今度はテニスというわけだ。これは、幸いにも今まで飽きたことがない。

だがこの時は、また何か始めるというのが億劫で仕方なかった。テニスなんてテレビでもあまり見たことがない。好奇心が働くよりも、嫌悪の方が早かった。

子供の俺がいくら嫌がっても、両親には逆らえない。新居についた翌日には、午前中からスクールに連行されていた。今は春休みだから、始めるなら今がチャンスらしい。真新しいラケットとシューズを持たされて、俺は渋々スクールに行った。

俺と同い年の子供が、緑のコートの上に勢揃いしている。みんな、俺より早くに入った子達だろう。ちょっと人見知りする質の俺には、とても入り込みづらい光景だ。コーチに紹介されてる間、俺は落ちつきなく辺りを見回していた。

来月から小学5年になる男子のクラスだと母親から聞いた。早く始めた子でも1年くらいの差しかないから、すぐ追いつける、とも。でも俺は自信に満ちたような彼らを見て、早くもやる気をなくしていた。彼らは体も大きく、力も強そうに見えた。

とりあえずコーチに言われたとおり、最近始めたばかりの子と組むように言われた。ストレッチや素振り、壁打ちなどいろいろやったけど、まだ下手すぎて身に付いていない気がした。最初だから仕方ない。

コーチも、今日は最初だからゆっくりにしようと言い、二人で休憩することになった。そして何気なく目の前のコートのミニゲームを観戦した。

そこに、あの子がいた。庭でお母さんと花の世話をしていた隣の家の子。細くて小さい体は、相手の男の子を翻弄するように鮮やかに動いていた。顎のあたりでで切りそろえられた髪が、妙に眩しく揺れる。ペアの子に名前を聞くと、柳蓮二君だよ、と教えてくれた。










蓮二とは家が隣同士だから、どうしても帰るときはほとんど同時になってしまう。家族に迎えに来てもらう時間もほとんど一緒だし、家についても玄関などでよく顔を合わせる。

俺はそれがたまらなく嫌だった。隣に越してきたのにまだ挨拶もしていない自分が、圧倒的な実力者である蓮二の前では、とてつもなくみじめに見えていたと思っていた。こそこそ覗くだけで何もしない自分が、テニスでも卑怯になる気がして、蓮二をまともに見られなかった。

誰より近くにいたのに、蓮二と俺はちっとも近付こうとしなかった。蓮二は相変わらず上位者の中でトップにいたし、俺は下の方で地道にやっていた。

ずっとそのまま過ぎていくと思っていた。だがそれは俺の方だけで、蓮二はそうじゃないみたいだった。

「ちょっといい?」

スクールには行って1ヶ月くらい経ったある日、休憩中にいきなり蓮二が俺に話しかけてきた。俺が返事をする間もなく、蓮二は俺の腕を引っ張ってコートの脇から外に出た。初夏の強い日差しで、蓮二の顔が眩しい。

蓮二は俺を前にしてしばらく何も言わなかった。何を言うべきか迷っているような感じだった。俺は、沈黙が苦しくて、顔を下に向けていた。頭のてっぺんを太陽が灼いた。

「…まだ始めて1ヶ月なのに、乾君は上手くなったね」
「……そうかな」

名前を呼ばれたとき、俺は顔を跳ね上げた。すぐまた下を向いたが、それはさっきとは違う理由からだ。俺は全く見当違いなことを考えていた。

蓮二は俺のことを知っていた。俺の上にいて、近くても近づけない蓮二が、俺のことを見ていた。俺だけが意識していたんじゃないと、この時分かった。

少し目を上げて見た蓮二は、俺とは正反対の顔をしていた。いつもは穏やかな目が、鋭く見開かれている。俺もそれに合わせ、口を引き締めた。だがそれでも、蓮二の気迫に満ちた顔にはだらしなく映りそうだった。










「…乾君と、初めて話したよ」

たっぷり間をおいて、蓮二はまた口を開いた。

「変だね、隣に住んでるのに、挨拶すらしたことがない。こうしてテニスをしてる姿は知ってるのに、それ以外は何も知らない。もう1ヶ月が経つのに」
「柳、君…」

早口でまくし立てる蓮二に、俺はとりあえず声をかけた。いまいち自信が持てなくて、弱々しい声は、蓮二に掻き消された。

「何でだろう。近くにいたのに、近づけなかった。わざわざ遠くに離れて見てただけだ。変だよな、こんなの」
「……そうだな」

柔和な面影から発せられる強い声は、今でもしっかり耳に残っている。それは自分と蓮二を近づけ、離れがたいものにした。蓮二の強い本質が初めて見えた。

もちろん、この時はそこまで気付いてたわけじゃなく、蓮二が俺と同じことを感じていたのだと知って、子供らしく喜んでいただけだ。それを蓮二に伝えたくて、でも俺は頷くしかできなかった。蓮二のように言葉に出来ない。

それでも蓮二はそのあたりを汲んでくれた。俺を見ると、いつもみたいに目を瞑って、やさしそうな顔になった。

俺は、それを見て、少しテニスにやる気を出すようになった。そうすれば、もっと蓮二と同じものを見られると思ったのかもしれない。










ここで夢は終わった。それと同時に目が開いたが、まだ起きる時間には早すぎる。俺は寝返りを打って、壁に正面から向いた。

あれからさらに2ヶ月ほどしてダブルスを組むようになり、順調に勝ち上がるようになった。スクールでは一番勝てるペアになった。俺は、蓮二とこのまま夢を見ていくんだと思った。

だがそう思う中で、何かが違うと感じるものもあった。だから俺は余計に蓮二と二人でいることに固執した。微妙な違和感をそれで打ち消そうとした。蓮二の中にも、それが確かにあることを感じていながら。

今日、おそらくシングルス3で対戦するだろう。最後の中途半端な試合以来、初めて本気で打ち合うことが出来る。

それによって、きっと俺は二度とお前と同じ場所に立つことはないと、改めて知ることになる。

俺は布団を跳ね上げ、ベッドから勢いよく降りた。












ちびっこいこいつらは本当にかわいい。




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