闇の時間 |
夏の夜、日が沈んだとはいえまだ空気はねっとりと重く、熱と湿気を孕んでいる。風はなく、日本特有の湿った高気圧が暗い校舎を包んでいた。 既にその日の練習も終わり、部員は皆帰った。テニス部以外の部活も、誰も残っていない。校舎内も必要最低限の明かりしかなく、そのほとんどは闇だった。 乾はワイシャツの襟を少し広げ、右肩のラケットバッグを担ぎ直した。誰もいない生徒昇降口から少し身を乗り出し、廊下の奥を伺う。職員室へ通じる階段は明かりがついているが、他は真っ暗だった。 昨日は、もう一つ明かりがついていた。職員室前に繋がる階段の、その少し奥。普段はあまり人が近寄らない、学校の中でも特に静かな部屋。 だが今、そこに居残っている人は誰もいない。乾は踵を返し、昇降口を出た。 関東大会1回戦突破を祝って、昨日はレギュラーとボウリングをしに行った。すぐ傍に控えている2回戦以降の為にも乾は練習することを勧めたが、それは意外にも誰の賛同も得られなかった。 あの、真面目で厳しい手塚でさえも、その日は休養を選んだ。部長の言うことはやはり影響力が大きく、顧問の竜崎も副部長の大石も、すぐさまボウリング行きを決めた。 久しぶりに、何も考えないでいい時間を過ごした。試合前の妙に波立った気持ちは不思議と凪ぎ、終わる頃にはテニスとは違った爽快感を得られた。 その直後、手塚が九州へ行くことを聞かされた。あの試合を見れば手塚の肩がただではすまないことくらい予想できたが、乾はそれでもなぜか信じることが出来なかった。竜崎の言葉も、ただ耳を通り過ぎていくだけだった。 そして今日、やはりそれは本当だった。手塚は予告通り飛行機に乗り九州へ旅立った。乾は見送りにも行き、それが本当に覆しようのない事実だということを、ようやく理解した。 乾は校門にさしかかり、そこで足を止めた。相変わらず空気は肌に張り付くようで、動きを止めるとすぐさま絡みついてくる。ワイシャツの襟を広げ、手で風を送り込んだ。 ここから振り返ると、生徒会室が見える。が、明かりの消えた今は、その場所がはっきりとは分からない。 6月期ランキング戦の後、乾はしばらくコート脇の水道から動くことが出来なかった。肩で息をするだけで、それまでの試合で得たデータをノートに書き込む気力もない。ひたすら地面を見て、流れ落ちる汗を見送った。 完璧に測ったはずの実力が、あっさりと目の前で塗り替えられていく。去年の手塚になら、あのままのデータでも勝てていたかも知れない。だがそんな自負も、彼に負けた、と言う事実が簡単に押し潰す。 今度の試合で、新たなデータを得た。それは大きな収穫に違いない。だが、それをノートに書き留める間にも、手塚はまた新たな力を得るのではないか。常人ならありえないことでも、あの男ならやってみせてしまいそうだ。 こういう試合が終わった後、、乾はデータノートを破りたくなる。そんなことはもちろんしないが、もし自分がこれを失ったら今後どうなるのかを、見てみたくなる。必死で考えてもそれはわからない。 その思いが高じて、乾は持っていたノートの端を少し千切った。あと少し力を込めれば、真っ二つに裂けるはずだ。びり、と微かな音がした。 それがとても響いた。そんなはずはないのに、乾は思わず部室まで聞こえなかった確かめた。やはり変わった様子はなく、着替え終わった部員が次々と出てくる。 乾はそこで手を離した。ノートは大げさな音を立てて地面に落ち、土埃がついた。それでようやく、乾は立ち上がり、水道で顔を洗った。 あのとき何がきっかけになって行動に移したのかは分からない。手塚に負けることなど珍しくないし、ああいう体験も初めてではなかった。 ただ、自然と手の動くままに、ゆっくりと力を込めた。ノートは容易く身を裂かれ、小さく悲鳴を上げただけ。 乾はラケットバッグを左肩に担ぎ直し、校門を離れた。重みから解放された右肩は少し凝り固まり、痛みを発している。右肩を動かし、乾は少し足を止めた。 もし、この右腕が動かなくなったら。激痛を発し、ラケットを握ることすら出来なくなったら。 この前の試合のシングルス1。激痛に顔を歪める手塚を思い出す。コートとその周囲は津波の前兆のように、一瞬静まりかえった。そして爆音と共に寄せ来る津波を、乾は遠く離れたところで見ていた。 あの頃も、乾は事実を受け入れられなかった。テニスをする者にとって、あの怪我は致命的。例え治ったとしてもすぐには復帰できない。 そんなこと、手塚にあっていいはずがなかった。いつも誰よりも上にいて、それでも飽きずに上昇し続ける手塚が、ここで消えていいわけがない。 乾は右手で拳を作り、少し早足で歩き出した。 中学に入って、手塚と初めて対戦をして、それからいつも打ちのめされてきた。ノートを破りそうになるのも、手塚から与えられた傷だ。いつもいつも倒され、負かされて、乾は数え切れないほど傷を作った。 何度諦めようとしたか分からない。部活から帰るたびに苛立って、悔しくて、胸焼けがしそうだった。ノートを破ろうとしたことは一度や二度ではない。 手塚と相対するだけで乾を襲う敗北感。初対面から強烈にインプットされたその闇はなかなか拭えず、逆にその色を濃くしていく。常に乾の身にまとわりつき、嫌な汗をかかせる。 足を速めると、その分だけ早く回る熱気が体温を上げる。手のひらに滲んだ汗を制服のズボンで拭い、乾は振り払うように歩いた。 街灯の点いた夜道。だがここは少し細い路地だからそれほど強くなく、行く先は薄暗く照らされている。 あるのかないのかわからないような光明。だがそれは暗闇に微かに光を投げかけ、少しだけ物を見させる光。光が僅かにでもあれば、人は映像を結ぶことが出来る。 脳裏に浮かぶ映像。それは昔のものであったり、ついこの前の試合風景だったりする。それらは確かに乾の胸に闇を残したが、闇の中であっても乾はそれらを思い描くことが出来る。ノートを裂く手を止めたのは、それを見ることが出来たからだ。 さらなる高みへ独りで向かう手塚の姿。同じような闇をどこかに抱えていながら、決して立ち止まらない。 夏の夜は短い。夜が明けきる前に、もう少しでも長く闇を睨みつけなければ。 |
今週号(13号)を読んで、改めて乾の 勝利への執念みたいなのを見せつけられました。 |
TOP |