Thirsty















桜のつぼみは開いたが気温は低く、空には鈍色の雲が敷き詰められている。雨でも降り出しそうなほど大気は水を孕み、肌にまとわりついてくる。

海堂はそんな空気をかき分けるように、グラウンドの脇をゆっくり歩いた。卒業式が終わったばかりでまだ人気のないそこも、あと30分もすれば別れを惜しむ卒業生とその後輩で賑やかになる。

学生服のポケットからテニス部室の鍵を取り出す。手の中でひんやり冷たい鍵は、去年の秋に副部長になったとき、受け継いだ。この小さい鍵で、朝一番に部室を開け、夕方は一番最後に閉める。副部長、なんていっても、やるべきことはほぼこれだけだ。

最初はこんな簡単なことでいいんだろうか、と柄にもなく考えたりした。前の副部長は、もっと部長と協力して、部のために行動していた気がしたからだ。鍵の開け閉めだけでいいとは、どうも違う気がする。

そのことを、ある日練習を見に来ていた乾に言うと、笑われた。あれは大石が自主的にやってたことだから、お前が無理にそこまで踏襲する必要はないんだ、と。

そういって、乾は海堂に秋・冬用の練習メニューを渡し、2、3アドバイスをして帰った。

それから海堂は悩むのをやめた。以前と同じように練習をし、毎朝毎夕鍵の開け閉めをし、オーダーを決めるときとランキング戦の準備は部長の桃城と少し話し合った。

自分の時間が減ることもないし、余計な考え事をしなくても済む。ただちょっとだけ帰る時間が遅くなるだけだ。海堂の精神には何も影響を及ぼさない。練習メニューだって、乾がよりよいものを与えてくれる。

練習のことだけじゃない。乾は常に海堂を助けてくれた。テストが近いときは自分のことを後回しにしても海堂の勉強を見てくれるし、何か話したいことがあれば、どんなつまらないことでも聞いてくれる。体を求めれば、優しく抱いてくれる。

乾と特別な結びつきを持つようになったのは、結構前のことだ。それより前から、乾は海堂に親切に接した。入部したての頃、あまり他人に馴染めない海堂は、それを頼りにしていた。

乾に寄りかかって、庇護されて、この2年間をぬるま湯の中で過ごしてきた。優しい愛だけを受けて。

それは新鮮で温かく、とても瑞々しい。まるで屠殺したての動物の血肉のように旨かった。だがそんな御馳走も、連続して与えられればすぐに飽きる。同じ獲物に飽きれば、獣は餌場を変える。










春先にしては少し冷たい風が吹き、海堂の目の横に雫が落ちた。途端に周りのアスファルトが水玉模様になる。空は一層暗く、空気は身を切った。

手の中で鍵を弄りながらゆっくりと歩くと、ようやく部室が見えてきた。冷たい雨が少しずつ降る中、コンクリート壁の建物はいつもより薄汚れて見える。

ぼんやりと咲いた桜の木が、部室の辺りを隠している。茶色と少量の桃色が、暗い空気に霞んで、部室の灰色のドアと溶け合う。

さらに歩くと、桜の木は部室の前から少し退く。するとそこに、突如黒い一点が現れた。ただの点としてそこにあるものは、海堂が部室に近付くと、徐々に人の形を成す。

「………大石、先輩?」

海堂に部室の鍵を渡した人は、なぜか一人でドアに体を預けて立っていた。3年生は、確か最後のHRをやっている最中のはずだ。みんなそこで別れを惜しみ、中学生活を懐かしむ。

だが大石は、雨の中部室の前に立っている。顔を少し俯かせ、どんな顔をしているのかは、ここからではわからない。海堂は少しずつ、部室との距離を縮めた。

大石が、海堂の前の副部長だった。厳しい手塚とは対照的に、部員全員に分け隔てなく接し、いつも部のことを考えているような、「理想的な」副部長だった。

下級生は皆大石を慕い、同級生も大石を信頼している。誰からも好かれ期待される。そして大石も、その期待を決して裏切らない。好人物の見本のような人だった。海堂にはずっとそう見えていた。

だが、そんな彼にも、ひょっとしたら違う一面があるのかも知れない。海堂は大石という人を部活のごく限られた面でしか関わらなかったから、こういうありきたりな評価しかできない。でももしかしたら、そうじゃないのかもしれない。

そこまで考えて、海堂は少し早まってしまった歩みを止めた。大石はこちらに気付いたらしい、顔を上げて真っ直ぐこちらを見ている。その表情はいつも通り穏やかで、海堂が思っていたとおりだった。

「早いな、海堂。もう開けに来たのか」
「…っす」

形ばかり挨拶して、海堂はどこか変だと感じた。大石は海堂が部室の鍵を開けるのを待っている。そして海堂は当たり前のように鍵穴に鍵を差し込み、大石を先に入れてやる。一連の動作は滞りなく行われた。

それがおかしい。海堂は後ろ手でドアを閉め、椅子に座る大石を見た。

さっき、自分は「大石にはいつも見えない面がある」というようなことを考えていた。何で、そんな考えになったんだろう。大石はよくできた副部長、それでいいはずだ。

「どうかしたか、海堂?俺の顔に、何かついてる?」
「いや…、別に」

何でもないっす、と口の中で呟いて、海堂は大石との間に机が来るように、ロッカーに背を預けて立った。










雨のせいで室内は暗い。かといって、二人とも電気をつけようとはしなかった。大石は少し姿勢を崩して座ったまま窓の外を眺めている。海堂はその横顔を、うっすら埃をかぶった机越しに睨んでいる。

最初に感じた違和感は徐々に膨らんでいき、今では海堂の脳を占領している。普段考えないことを考え、頭脳は緩慢に回転している。

壁に掛かっている時計が1秒ごとに音を鳴らす。窓の外は徐々に黒ずんでいく。雨脚は強まり、激しく窓を打つ。大石はこのまま眠ってしまうのではないか、というくらい目を伏せている。

「あの」
「な、何だい」

いきなり声をかけたため、大石は少し声を詰まらせた。だがすぐに平静を取り戻して、海堂の方へ向き直った。真っ直ぐ海堂を見て、次の言葉を待っている。

「…HR、もう終わったんすか?」
「え?」
「先輩、部室の前で待ってたじゃないすか」
「ああ…。…HRはまだやってると思うよ。俺が勝手に抜けてきたんだ」
「何で…」
「何で?…海堂なら、何となく分かりそうな気がするけどな」

海堂の掌が汗ばんだ。何となく感じていた不安を少しでも払拭するために、適当に声をかけてみたが、こんな事を言われるとは思わなかった。心臓は早鐘を打ち、瞳孔は収縮する。

「………俺なら、わかる?」

大石のように人当たりがいいわけでもなく、信頼を得ているわけでもない。海堂には親しい人間は乾しかいない。その乾すら、自分から遠ざけたいと思っている。大石はたくさんの人に囲まれて、その人達を離れさせない。

海堂は大石を見た。大石は唇を軽く結んで海堂の正面を向いている。垂れ気味だと思った目尻は、それほどでもなかった。

大石は確かに人の心を掴むかも知れない。しかし、それをすべて自分のすぐ近くに置いておくだろうか。自分と乾のように。自分だったら一人だって耐えられない。自分から離れて行くだろう。

「…大石先輩も、」
「………」
「同じだから、ですか」
「………」

大石は答えない。ただ唇を引き結んで黙っている。海堂には、それだけで十分だった。

窓の外の雨は一層強く降り、風も轟音を立てている。遠くで稲光が見えた。これではせっかく開いた桜の花も台無しだろう。海堂はそんなどうしようもないことを考えながら、大石の向かい側に座った。

大石の、おそらくかなり奥深くにあるところ。他人のそんなところに触れたのは初めてで、海堂は昂揚していた。

まさか大石のような人が自分と同じだとは思わなかった。常に一人で、異なるものを近づけない。近づけさせない。

では、自分はどうなのだろう。同じものを持つ同士でも、今の自分と乾のように嫌悪して離れようと思うのだろうか。蛇が鎌首をもたげるように、海堂の中でゆらめいている。

海堂は椅子を引き、身を乗り出した。真っ直ぐ前を見ている大石と、呼気がぶつかり合うほど近付く。大石の黒い瞳に、目を見開いた海堂が映っている。その像にも、無表情の大石が映り込んでいる。更にその中には海堂が。

何重にも映る像。それに引き込まれて、海堂は更に顔を寄せる。大石は避ける素振りも見せない。

外では一際大きな風が吹き、開いたばかりの桜の花びらを吹き飛ばしていった。













大海は乾海が根底にあると萌えです。
乾が可哀相なことになりますが…。




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