魔法の言葉















「…何もねぇじゃねぇか…」

後ろの方で乾先輩がそうか?と呑気に言った。俺は振り向いて、先輩に冷蔵庫の中身を見させた。

「あるじゃないか。牛乳と、マヨネーズにわさび、しょうが、ポン酢…」
「でもカレーの材料になる物は何もねぇっス」
「牛乳は?入れないの?」
「牛乳だけじゃ作れねぇだろ…」
「そりゃそうだ」

と、いつまでも屁理屈をこねて動こうとしない先輩の尻を、俺はつま先で軽く蹴った。痛いなぁ、とかなんとか言ってやがったが、無視して台所を出た。

廊下を挟んで向かいにある先輩の部屋から、俺のコートと先輩のジャケット、それに財布を取って、ぼぉっと突っ立ってる先輩に投げつける。先輩は何か言いたそうだったが、俺はまた無視して先に玄関に向かった。

「海堂…。外寒いよ?今日は出前ってことに…」
「カレーが食いたいっつったのはアンタだろうが」
「そりゃそうだけど、別にカツ丼頼んでもいいかなって…」
「グダグダ言ってねぇで、さっさと行くっスよ」
「……はい」

渋る先輩を引きずり出して、俺達は歩いて10分のスーパーに出かけた。










先輩から電話があったのは昨日だ。「明日から母親が出張なんだ。来ないか?」先輩の父親はいつも帰りが遅いから、しばらくは先輩一人のようなものらしい。

こういう風に、特に理由もなく家に誘う時は、当然のように泊まりがけになる。泊まれば当然、夜になればセックスをする。中学の時から、それは変わらない。翌日部活があるときは加減してくれるが、たいていは前後不覚になるまで続く。

前に寂しいのか、と聞いたけど、先輩は違うよ、と言った。でもその後だいぶしつこくやられたから、もしかしたら図星なのかもしれない。この人は口で本音を言いたがらないから。

今は冬で、冷え込みが続いたせいか珍しく雪が積もっている。今日明日と部活はないから、今夜も多分するだろう。体は辛くなるけど、こうして誘いに乗った以上、断るつもりはない。

「海堂、玉ねぎはいるんだっけ?」
「普通入れます」
「そうか…。ナスは入れる?」
「うちのには入ってます」
「俺あんまり好きじゃないんだけど…」
「ガキみたいなこと言わないで下さい」
「…わかったよ」

買い物カートを押す先輩に、食材を教えるのは意外と疲れる。この人は一人でいることが多いくせに、家事を全く覚えようとしない。カレーくらい作れるのかと思っていたが、肉とじゃがいも以外は何が入ってるのかよく分かってないみたいだった。

「肉は牛でいい?」
「…今日のは高いんで、豚にして下さい」
「了解」

豚バラ肉をカゴに入れると、先輩は何がおかしいのか、突然笑い出した。

「…何スか」
「いや、君は俺の懐具合まで考えてくれるのかと思ったら、なんかね」
「………」

本当に楽しそうに笑う先輩に、俺は何も言えなかった。先輩はレジで会計を済ませるまで、にやにやと笑っていた。










今日の朝、乾先輩の家に着くと、先輩はまだ寝ていた。部活を引退してからトレーニングを緩めた先輩は、前以上に寝起きが悪くなった。5回くらい耳元で怒鳴らないと目を開けようともしない。

そうして起こしても、しばらくはベッドの中をゴロゴロして、30分は出てこない。下手するとまた寝るから、俺は一度起こした手前、見張ってやらなきゃならない。

ようやく起きあがってもまだ寝ぼけているから、眼鏡をかけないで顔を洗いに行こうとする。寝起きでふらふらしてるくせに目が悪いから、そこら中に体をぶつけて歩く。俺は眼鏡を持って、先輩を追いかける。

眼鏡を渡す頃には、散々ぶつけたおかげか先輩も目を覚まし、目もしっかり開いている。二重のはっきりした、優しい目。

「結構かかっちゃったな」
「材料全部揃えたからっスよ…。親が長いこと家空けるときは自分で作るようにしたほうがいいっス」
「そうだね。気をつけよう」

量が多くて買い物に時間がかかり、スーパーを出たときにはもう日が暮れていた。冷たい風が吹く中、俺と先輩は重い袋を手分けして持った。飲み物もなかったから2リットルのペットボトルを2本買ったが、それを持つ先輩は腕が抜けそうだとか弱音を吐いている。

「しかし、世の中のお母さんは偉いなぁ。こんな重いものも買って来てくれる」
「こんなまとめて買うのは、たまにしか料理しない人だけっス」
「忙しい人もいるんだよ」
「でもこのくらいの量なら一人で持ちますよ」
「…すごいなぁ、本当に」
「アンタは情けないスね」

ひどいなぁ、と先輩はまた笑った。










家に着くと、すぐ夕飯の準備を始めた。俺は母親が作るのを何度か見ただけ、先輩はそれすらないというから、手際は悪い。

まず先輩が自分の家の台所を把握していなかった。使いやすそうなシステムキッチンなのに、ミキサーと包丁の場所しか覚えてない。汁の試作しかしたことないみたいだ。

必要な道具を何とか出し終わると、次はいよいよ材料の下ごしらえに入る。先輩と二人で手分けしてやるつもりだったが、俺は先輩の手つきを見てすぐそれを諦めた。

「…先輩」
「どうした、海堂」
「……どうして、ピーラー使ってんのにそんなトロいんスか?」
「え?」

先輩の家にはピーラーは一つしかない。あんまり手伝いをしない俺よりも、先輩はさらに家事に慣れてないだろうから先輩に譲ったが、それすら使えないほど手伝わなかったらしい。

先輩が1個のじゃがいもを剥く間に、俺はにんじんとナス、玉ねぎの処理をほぼ終えた。包丁で皮を剥いたことはないから、かなりトロくさかったと思う。

「何おっかなびっくりやってんスか!もっとガッと剥いたって手切ったりなんかしねぇよ!」
「いや、でもこのイモ滑るよ」
「しっかり持てば大丈夫っスよ…。…もういい、アンタはどいててくれ」
「え、でももう6時過ぎてるし。俺ハラ減ってるから早く食いたいし…」
「じゃあ余計手ぇ出すんじゃねぇ」
「……はい」

俺だって作ったことはないが、こんなトロトロ手伝われたんじゃ逆に料理が進まない。先輩からピーラーを奪い取って、急いで残りのじゃがいもを剥いた。

皮を剥いたら次は適当な大きさに切って、油を引いたフライパンで炒める。カレーなんて手間かけようと思えばきりがないらしいが、ルーの箱に書いてある通りにやると、そんな大したものじゃない。コクとかそういうのが変わるんだろうけど、今はとりあえず食べられればいい。

「……………」
「…何スか」
「いや、手慣れてるなぁと思って」
「…鍋かき混ぜるくらいなら、やったことなくてもできる」
「じゃあ替わろうか?」
「………いいっス」

何となく信用できないから、先輩にはカレーを盛る皿とスプーンを用意して貰うことにした。そう頼むと、先輩は嬉しそうに食器棚を探った。










「………最悪だ」
「……海堂、そんなに気にするな。冷凍ご飯がある」

飯を炊くのを忘れた。先輩はすぐ冷凍庫からラップにくるまれた残り飯を取り出して電子レンジに入れてくれた。が、そんなもんじゃフォローにはならない。あんな偉そうに仕切ってたくせに、単純なミスをしてしまった。しかもそれに気付いたのは先輩だ。

「カレーも、どろどろになっちまう…」
「俺はどろどろの好きだよ」
「俺は水っぽい方が好きなんスよ」
「…そ、そうか」

飯の解凍が済むまで、俺は自己嫌悪と空腹で最悪な気分だった。でも先輩は、何だか口元が緩んでいる。腹が減りすぎて頭にきちまったのか?

「…あの」
「ん?」
「何で、今日そんな機嫌よさそうなんスか?」
「おっと、顔に出てたか…。気持ち悪い?」
「少し」

俺は控えめに応えた。

「ひどいな、海堂。俺はただ嬉しいだけなのに」

先輩は本当に何か「嬉しい」らしく、気持ち悪いといわれても笑い続けていた。今日、そんないいことがあったようには思えない。

「何が…」
「嬉しいのかって?…改めて口に出すのは照れるな」
「…言って下さいよ。わかんねぇままは気持ち悪いっス」
「わかったわかった」

聞いても笑うなよ、と前置きして、先輩は口を開いた。










「朝は海堂に起こされて、昼は一緒にいて、夜はこうして夕飯作ってもらって。今日一日ほとんど家にいたのに、ずっと海堂と一緒だった。何かすごいことだなぁと思ったら、嬉しくってね」

早口でまくし立てた先輩は、さすがに照れくさいのか席を立ち、ちょうど回答が終わったらしい飯をさらによそった。おぼつかない手つきを見てられなかったが、俺は席を立てなかった。

寝穢い先輩を起こすのも、寒い中無理矢理外に連れ出して一緒に買い物をするのも、セックスをするのも、俺は嫌いじゃない。嫌いじゃないから、先輩と同じ事を考えていた。顔に出さないだけで、俺だって負けなくらい、嬉しい。

あの電話があったとき、本当は家族と映画に行くつもりだったけど、すぐやめたんだ。迷ったりはしなかった。

それも、こうして二人で出かけ、食卓に着きたかったから。どんなに夕飯の時間が遅れても、腹が減っても構わない。

「………一緒に暮らせば、これが毎日になるのかな」

先輩が小さい声で一言漏らした。二人しかいない台所では、聞き逃すはずがない。

「…そん時は、ちゃんと料理覚えて来ます」

こんな事をつい言ってしまうのも、この人につられたからだ。きっと、そうだ。先輩はぎこちなく笑った。

「じゃあ、俺は二人でゆったり暮らせるぐらいの広い家を持てるよう、頑張るよ」
「賃貸っスか?」
「将来的にはスーパーに5分の所に一戸建てだ」
「期待してます」
「海堂の料理にも」

お互いの顔を見る俺達は、きっとだらしない、夢見がちな顔をしてるんだろう。













高校生乾海。
乾がへたれ通り越してボケ老人に…。




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