冬の事件 |
年が明けて、新学期も始まって、だいぶ経った日。 少し早めに学校に来た乾は、階段を上って3年11組の教室に入った。既に数人の生徒が席に座り、各々必要な勉強をしている。 乾もそれにならって教科書を広げた。昨日は夜更かししたから少し眠ろうかとも思ったが、起きたばかりの頭はしっかり冴えている。時間を余らせるのももったいないので、今日の予習でもすることにした。 予習と言っても、もう新しく習うところはない。来る受験や進学試験のために勉強を重ねるだけだ。乾は次々とページを繰った。 始業までまだ1時間以上ある。乾いた眼球は今にも瞼を下ろしそうだが、脳は活発に動いている。1年の頃からの習慣は今も抜けない。 盆と正月、それと何かの行事や学校の事情で休みになる以外は、毎日朝練があった。まだ目が開ききらない時間に寒いコートに集められて、必死で体を動かす。慣れないうちは大変だったが、今では必要もないのにその時間に合わせて起きるようになっている。 教科書を閉じて窓の外を見た。コートから少し離れたテニス部の部室が、ここからはよく見える。1年生がテニスボールを満載したかごを持って、早足でコートへ急ぐ。 コートにはもうレギュラーがいた。アップを終え、ボールの用意を急がせている。乾は目を細めた。ボールを持ってきた1年生に、部長としての姿も板に付いた海堂が練習の指示を与えていた。 それから授業が始まり、1日が徐々に過ぎていった。乾は都内の進学校の過去の入試問題を解きながら、暇を見ては窓の外を眺めた。今は誰もいないそこに、何故か目を向けてしまう。 もう引退してしばらく経つ。練習中にはいろいろあったが、どれもそんなに悪い思い出ではない。部活の仲間は気がいい連中ばかりだし、そこにいるのは楽しかった。 特に、初めて後輩を迎えたときは自分が誇らしかった。年が上だと言うだけで自分を特別なものにしてくれる後輩が、乾は可愛いと思った。 だがそうじゃない後輩もいた。桃城は人懐こい顔をしながら虎視眈々とレギュラーの座を狙っていた。それで乾は、改めて気は抜けない所にいるのだと自覚した。 そして海堂のことを思い出す。初めて会った時から遠慮なく他を睨みつけた瞳が印象深い。どんな強い相手にも勝つつもりで向かってくる姿勢が、どこか微笑ましかった。 そんな、必死であがく姿は動物みたいだった。あるいは自分を大人に見せようと必死な子供。乾は動物も子供も別に嫌いではないから、海堂を邪険にしたりはしなかった。他の後輩と同じように。 だが海堂はそうではなかった。誰とも親しまず、テニスだけをしていた。もちろん他の後輩のように乾を特別に思うわけもない。 そんな海堂が、乾は苦手になった。それは1年近く前のことだ。 そんなことをぼんやり思っていると、一日の授業がすべて終わった。もちろんその間の日常的ないろいろは、こなしている。ただすべてが上の空だっただけだ。 同級生が補習や自主学習で方々に散る中、乾は一人階段を下りて昇降口に向かう。これから部活なので廊下はにぎやかだが、制服のままの生徒は少ない。外で練習をする部活も、今の時期は体育館での練習が多い。テニス部は、今日はどうするのだろうか。 そんなことをぼんやり考えて歩いていると、見慣れた後ろ姿がいた。乾は少し足を速めて、その肩を叩く。 「海堂、今から部活か?」 「…っ、ハイ」 海堂は少し驚いていた。乾はそれを見なかったことにして、海堂の隣に並んだ。 「今日は外でやるのか」 「ハイ」 「寒いだろうな」 「…っスね」 途切れがちな会話。もう2年以上同じ部活にいたが、これは全く変わらない。海堂は饒舌な方ではないし、乾も何を話すべきか決めかねている。 こんな空気、確かに耐えられなかった。乾は海堂が苦手だったし、海堂もまたそうだったのだろうと思う。でも今、二人で並んで歩いていることは何も不自然な気がしない。 乾はふとあることを思いついた。自分が今まで誰にも話さなかった事を、海堂にだけ打ち明けるのだ。 一度思いつくと、それを実行したくてたまらなくなった。何故そんな気持ちになったのかはわからない。だが、乾は既にそのタイミングを計り始めていた。 やがて生徒昇降口が見えてきた。2年生と3年生では下駄箱の列がだいぶ離れているから、話すのならそろそろだ。乾は少し足を速めた海堂の肩を掴み、正面を向かせた。あの子供の眼が少し上にある乾の目を見ている。 「…どうか、したんスか」 それは短い間だったが、乾には永遠に感じられた。海堂の肩を掴んだままの手はうっすら汗ばんでいる。 「…ああ、えーと、その」 「……」 自分はこんなに口べただったろうか、と乾は自問した。考えていた文章が出てこない。喉の少し奥の方で詰まっている。早く出してしまいたいが、焦るほど言葉は奥へ行く。 こんな事を考えたのを後悔した。何を期待してこんな事を言う気になったのか。今までの海堂の様子を見ていれば、望むような反応を得られないのは明らかだ。 でも乾は手を引っ込めることが出来なかった。まだ薄い肩を掴んだ手は、居場所を得たようにそこから動かない。 動かない右手を見つめ、乾はあることを思い出した。いつからか、乾はこの後輩を苦手には思わなくなった。確か、今年の春のことだ。 海堂が微笑ましいだけの子供ではなく、自分の地位を脅かすほどの強敵であること。それが、乾の寝ぼけた目を完全に目覚めさせた。年上であることの慢心を捨てさせた。 それからは必死で体を鍛えた。手塚にも肉迫するまでになった。今年の夏は、他のことに気が回らないほどテニスに打ち込んだ。海堂のように。 自分がそうするようになって、初めて乾は海堂に対する見方を変えた。それからは、あっという間に月日が過ぎた。 ここへ来て乾はようやく気がついたことがある。そして、海堂に秘密を打ち明ける理由も、どうやらそこにあるらしかった。 「…海堂、俺」 乾は少し笑った。 「青学の高等部には進まないつもりなんだ。都内の、ちょっとだけ偏差値の高いところに行く」 「………」 乾は言うべき事を言い終えて、肩に置いていた手を外した。海堂は、無言だった。 これで、海堂を拘束するものは何もなくなった。海堂は、一言当たり障りのないことを言えば、部活に行ける。テニスを捨てる乾の元から去ることが出来る。 海堂は一歩も動かなかった。乾は微笑んだまま、海堂から一歩退いた。その分だけ、海堂の姿が遠ざかる。 一歩ずつ、確実に距離を空ける。少しずつ海堂の姿は遠ざかり、乾は下を向く。 やはり思ったとおりだ。どんなに自分が望んでも、海堂には一片も届いていない。今の言葉がただの秘密の告白ではないことに、気づきもしない。 自己を憧れの姿に同一化し、その対象を憧憬するとと共に愛する。そんな子供じみた恋の仕方が、乾にはおかしくてたまらない。 嫌悪したのは、憧れすぎてたからだったのか。子供過ぎて気づけなかった。 乾は下を向いたまま背を向けた。何も言わない海堂を置き去りにして、自分勝手な告白を終える。 「…先輩、あの…」 海堂が何か言っている。 「………頑張って、下さい」 「…ああ。お前も」 開け放たれた扉から容赦なく吹き込む冷気が、鼻をすする音を誤魔化してくれそうだった。 |
へたれすぎて失恋する乾。 |
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