眩暈がするほど速く、気を失うほど遅く















俺のクラスの理科を教えている先生は、よく喋る。授業の進行の仕方自体はまったく普通で、聞いているとうっかり眠ってしまいそうになるんだが。

そういう生徒がいると、彼はすぐその生徒を起こす。そして授業をしている時より少しだけ楽しそうな顔で、授業とはあまり関係のない雑談を始める。

話題は様々だ。コウモリについてだったり、自分の学生時代の思い出話だったりもする。半分寝てる奴も、話が始まると真っ直ぐ先生の方を向いて話を聞くようになる。結局は授業をちゃんと聞かせるための方策なんだが、不思議とみんなそれには素直に従う。

今日も、俺は少し面白い話を聞いた。










「心臓が速く動くほど、時間が長くなる?」

部活が終わって、俺はコートに残って素振りをしていた。最後に残った一年生が着替えを終えて帰っていくのを確認して、俺はクールダウンを兼ねたランニングを始めた。一年生が十分遠くに行く頃を見計らって、裏の門から外周に出る。

正門と真逆に位置する小さい門から出ると、そこに乾先輩がいた。普通なら軽い挨拶くらいするが、黙々と練習してる姿があんまり真剣だから、声をかけられなかった。俺はその横を通り抜けた。

500mくらい走ると、後ろから足音が聞こえてきた。振り向くと、やっぱり先輩だった。俺の横に追いつくと、先輩は何の前置きもなく、いきなりさっきの話をした。

「何スか、それ…」
「うん、今日聞いた話なんだけど」

そう言って始まった話は、大体こんな感じだった。

速く足を動かせば短い時間で長い距離を歩くことが出来る。それと同じように、心臓が速く鳴るほど全身に血液が素早く行き渡り、様々な動作が迅速に行われるようになる。一動作にかかる時間は普通より短くなるから、その分残り時間は長い。

こういう話をどうして俺にするんだかよくわからない。走りながら聞いていたせいで意味がよく分からなく、俺は馬鹿みたいな相槌しか打てなかった。










大股で地を蹴る足が、アスファルトをテンポ良く打ち音を立てる。それに交ぜるように、俺は先生から聞いた話をそのまま喋った。

海堂はあんまり聞いてないみたいだ。そりゃ、いきなり横に寄ってきてこんなことベラベラ喋るんだ、邪魔くさいに決まってる。

それでも俺は構わず話し続けた。

「試合中とか、気付くともう5ゲームもやってたんだ、みたいなことないか?それも、これと一緒。運動して心拍数が上がって、体が速く動くから時間が短く感じるんだ。たまに延々ラリーが続いて、見てる方がハラハラするようなことがあるけど、本人は別に一瞬のことみたいに感じる」

「…はあ」

「時間なんて、人によって進む早さが全く違うんだ。その人が、その時をどう思い、過ごしているかで」










先輩が話し終わると、あっという間に静かになった。俺はコメントできるほど今の話を分かってないし、先輩も、もう話すことはないみたいだ。ただ走ってる。

そういえば陽がさっきよりだいぶ低い位置にある。走ることの他にも人の話を聞いていたりしたから、この変化はずいぶん唐突に思えた。

さらに言うと、もうランニングは終わりそうだった。ついさっき出たばかりの門が、もうすぐそこに口を開けて待っている。

一定のペースで走っていれば、いつかは必ず目的地に辿り着く。俺は毎日のペースを狂わせず、同じような速度で走っている。毎日同じくらいの時間にそこに着いて、同じような時間に練習を終えて、コートを後にしている。

今日は人と一緒だったけど、ペースを変えたつもりはない。携帯の時刻表示を見れば、いつも通りの時間を示している。

じゃあなぜ、今日はこんなにすべてが速い。










ランニングを終えて部室に戻るまで、俺も海堂も何も言わなかった。

疲れていた。俺は喋り疲れ、海堂は聞き疲れていた。いつも俺の突拍子のない話に付き合うのは、実はとてもしんどいんじゃないか、と今更ながら思う。

でも、そんな思いをさせることになっても、聞いて欲しかった。聞いて欲しいことがあれば、誰だって人に言うだろう。俺は今、あの瞬間に、海堂にあの話を聞いてほしかった。

少しでも、俺の考えてることを知って欲しい。ずいぶん勝手で一方的だけど、それが今のところ、俺の唯一にして最大の望みだ。

その為には、どんなに心臓が速く動いても足りないと思うんだ。俺の話は長いし、それで伝わることは僅かだ。海堂といられる時間は、それほどない。

この欲求を解消するには、どうしたらいいんだ。










着替えてる間も、口は縫いつけたみたいに開かなかった。乾先輩もそうなんだろうか、二人とも何も言わない。手をのろのろと動かし、スローモーションで見てるみたいにゆっくりと着替える。

いつも通りの時間に部室に入ったはずなのに、時計の針はあっという間に帰る時間を過ぎていた。まだ着替え終わっていないのに。俺は少し焦った。

「海堂」

一足先に着替え終わっていた先輩が、俺の方を見ずに声を出した。低い声だったけど、それを遮る音はないからよく聞こえる。

「…何スか」
「俺は…いつも、心臓がもっと速く動けばいいと思っているよ」

先輩は言い切った。俺は学ランのボタンを留める手が少し震えているのに気付いた。先輩がさっき言っていたことが、急に蘇る。

「……俺は」

気付くと俺も声を出していた。先輩は思いの外響いた声に少し驚いて振り返った。真っ向から、目が合う。

これの続きを促していた。でも俺は、言うのが少し怖い。










「……ゆっくり、動いて欲しいっス」

ハッキリした声だ。静かな部室によく通る。海堂は珍しく俺の方を向いていた。

「何で、そう思う?」

追求すると、海堂は困ったように目を逸らた。俺も、もしさっき海堂に聞かれていたら、多分こうしただろう。

時間がずっと続いて欲しい。ただの時間じゃなくて、今ここにこうしていられるような時間。もちろん、そんなの不可能だ。常に時は進み、止まらない。

だから少しでも速く動いて、こうして黙ってお互いだけを側に置いておけるような、一見すると全くの無駄に見える時間を、出来る限り残しておきたいんだ。

海堂に、ひょっとしたら一部分でも、伝わっただろうか。海堂は未だ下を向いたままで、俺はそれをただ見ている。

こういう時間はとても早く過ぎ去っていく。穏やかな鼓動は確実に回数を刻む。俺は一秒でも、それを引き延ばすため、いつもあがいている。










俺は気を抜いたら倒れ込みそうだった。こんな時には、俺が何か言うまで何も言わない乾先輩がどうしようもなく苛つく。いつもみたいにベラベラとどうでもいいようなことを喋ってほしい。俺が何も言わなくて済むように。

でも、苦しくても言わなくちゃならないことがある。俺の心臓は、形がわかるほどハッキリ脈打っている。時計の針がスローに揺れる。

「………わかんねぇ。なんとなくっス」
「そうか。…そろそろ、行くか」
「ハイ」

時間は諦めたら元に戻った。俺は荷物をまとめ、先輩と部室を出た。

何も考えず、穏やかなことだけ話していれば、時間はあっという間だ。今日ももうすぐ、先輩との別れ道が来る。あまりのあっけなさに面食らうこともあるけど、俺は毎日、今のこの瞬間を待ち望んでいる。











TOP
[PR]動画