Fall Into the Hole















乾はゆっくり時間をかけて廊下を歩いた。既に昼休みは終わりに近付き、あたりは教室へ急ぐ生徒で忙しない。乾はその流れに逆らうように進み、少し奥まった所にある階段を上った。

その階段は普通教室棟と特別教室棟とを仕切る場所にある。いつも人の出入りが多く、始業直前まで騒がしい。今も、屋上で昼食を取り終えた女子生徒が乾の横を通り過ぎていった。

乾はそれとは逆に、慌てる様子もなく階段を上る。半ばまで上った頃予鈴が鳴ったように思ったが、それを無視してさらに上った。

少し広めの踊り場のようなスペースに、余った机と椅子が雑多に置かれている。音を立てないように気をつけて進むと、年季の入ったドアがあった。他の場所より目をかけられることのないここは、どんなに古くなっても変えられることがない。ノブを掴み、軋む蝶番をできるだけ慣らさないようにして、ドアを開けた。

屋上に出た乾は、灰色に染まった雲を見て口の端をあげた。気温も、初夏にしては低く、風はそれほど湿っていない。こんな陽は晴れの日よりも人気がなく、ひどく静かだ。

乾はドアを閉め、すぐ斜め前の給水塔の陰に向かった。ドアから顔を出しただけでは見つからないそこが、乾の絶好の休憩所だった。いつも昼寝をしたりして暇をつぶしている。

「…ずいぶん珍しいヤツがいるな」

指定席に向かった乾は、眼鏡のずれを中指で押さえ、珍しい先客を凝視した。その時、5時間目の本鈴が鳴り、横たわる大石は目を覚ました。

「…ん…。しまった、これ本鈴か…」
「お早う、大石」
「…っ、い、乾!?何で…、え…」

どうやら寝過ごしたらしい大石は、普段からは想像もつかないほど取り乱していた。まさか人がいるとは思わなかったのか、音にならない声を上げて、口を落ち着きなく動かしている。

乾はそんな大石に何かを言うこともなく、観察するようにその様子を眺めていた。










狼狽した大石が平静を取り戻すのに時間はかからなかった。いつも通り落ち着いた、冷静な様子は、ここではなぜか不自然に見える。乾は大石から目を離し、少し間を空けて隣に座った。

大体、今ここに大石がいること自体おかしいと思った。真面目で、教師からも同級生からも後輩からも信頼され、絵に描いたような優等生の大石を、授業をサボるという行為にどうしても結びつけられない。

現に、今も落ち着いて見えるが、視線は階段へ続くドアの方へ向けられている。先生にみつかりはしないか、そんな不安が見て取れる。

「…なあ、大石」
「ん?」

きっと震えるだろうと思っていた声は、いつもと何ら変わりはなかった。まるで部活中に話しかけた時のようだ。乾は軽く動揺した自分を宥め、話を続けた。

「いつもここに来るのか?」
「いや、ここに来るのは初めてなんだ。いつもは美術準備室とかに行くから」
「…そうか」

淡々と綴られる大石の言葉に、乾はただ圧倒された。今まで自分の打ちで作り上げてきた像を、無下に踏み砕かれたような気分がする。生温い風が吹き、知らず湿っていた肌の表面を撫でていった。

「ひょっとして、俺がサボリの常習犯なんて、思わなかった?」

再生不可能になるまで破片を粉々にされた。悪意の塊のようなものを無造作に中心に打ち込まれた。乾は笑顔さえ浮かべる大石を、見ることができないでいた。

「さらに言うと、こんなものも持ってる」

紙製の小さい箱と、金属の物質がコンクリートの床に静かに置かれる。そのごく小さい音は、耳から入り込んで乾の心臓を跳ね上がらせ、脳を震わせた。

手のひらに収まるサイズの、白い小さい煙草の箱に、対照的なまでに真っ黒な100円ライター。

「大石…」
「持ってるだけ、吸ってないよ」
「そういうことじゃないだろう」
「そうかな」

大石の嫌に明るい声が、乾の耳から離れない。塑像を構成していた小さな欠片は、音も立てず風に吹かれ、跡形もなく飛んでいった。










「自分でもね、馬鹿みたいだと思うよ。授業をサボっても後で友達のノートを必死で写してるし、煙草はたまに取り出して眺めるだけで、吸おうとも思わない」

意味なんてないんだよ、と大石はどこか欠けているように底抜けに明るい。乾は大石の独白を黙って受け止めていた。

「エージも、手塚も、家族も、俺がこんなことしてるなんて誰も知らない。知られないように注意して動いてるしね。煙草も、休みの日に2駅離れたコンビニにわざわざ買いに行ったんだ。店員が不真面目そうなバイトの時を狙って」

どこか崩壊したような大石が痛々しくて、乾はそれ以上聞いていられなかった。勢いをつけて立ち上がり、大石の正面に回り込む。大石は目の前で立ち尽くす乾を見上げようともしない。

うなだれた頭が作る影が、とても陰湿なものに見える。そこに大石を狂わせ騒がせるものがすべて詰まっているようだ、と乾は思った。

「どうした、乾。急に立ち上がったりして。俺の地味な不良ぶりに呆れたか?」
「……そんな風に喋るな」

大石は尚も顔を上げない。乾は焦れたように低い声を押し出した。

「何で、そんなことを俺に言うんだ。そんなこと言われても、どうしようもない」
「別に、何か言って欲しくて話した訳じゃないよ。気にしなくていい」
「じゃあ何で…!」

大石の静かな声が乾を激高させる。大声を上げる乾に、大石はあくまで静かに透明な声で言う。

「…今の話で、俺のイメージが壊されたのか、乾?だからそんなに怒ってるのか」

大石が初めて乾の顔を見上げた。案の定、その表情は中身のない明るさで満ちていて、一番大石に似合わない顔をしている。乾は目を逸らした。大石は空気だけで笑った。

「ほんの少し汚いところを見せると、みんなそうやって目を逸らす。俺は、ずっとお前の勝手なイメージ通りでいまきゃいけないのか?」
「………」

乾を見上げる目は、いくら覗いてもそこを見ることが出来ないほど、深かった。










そうして向き合っていると、5時間目の終了を告げるチャイムが鳴った。遙か遠くからフィルターを通したようにぼやける電子音は、二人の耳に微かな音を届けた。

「…もう行くよ。次は1組との合同体育だから」
「ああ…」

大石は顔を伏せ、少し早足でドアへ向かった。乾は大石の背中がその向こうへ隠れ、完全に閉まるまで待ち、改めていつもの場所に座った。

この薄汚れたコンクリートの床の上があれほど似合わないのは、ただ単に大石が空想のままの存在だと思っていたからだった。それは、全くの見当違いであると、今更思い知らされた。誰も気付かず通り過ぎる暗黒に、大石は誰より深く入り込んでいる。

乾は座ったきり、空中の一点を見つめる以外は何も出来ずにいた。先ほどまで大石が座っていたはずのそこは、何の温もりも感じさせない。

新しい塑像を作ろうにも、輪郭は幾重にも重なり、乾はその中の一本を選べず、形はいつまでも定まらない。











結局乾は5時間目も屋上で過ごし、部活には遅刻した。手塚は厳しく乾を追求したが、大石はいつものように笑って手塚を宥めていた。そのおかげか、10周は課されるはずの罰走が5周で済んだ。

そんな誰もが慕う優しさも、乾には虚飾以外の何物にも見えなかった。

大石の取る行動のすべてが、まるであらかじめ形の決まった像を造らせているように見える。人によっては鉄で作った固くて動きようのない像になっているだろう。

乾も、かつては大石の思惑通りのものを思い描いていた。それを大石自らが破壊し、気の済むまで踏みつけていった。

大石と目を合わせるのが何だか恐ろしくて、乾は練習中、まともに前を向けなかった。昼間、無防備に覗き込んだ目は、乾に果てしない距離を思い知らせた。

恐怖に駆られるまま、あのとき乾は大石に詰め寄った。あんな風に簡単に道を外れようとする大石を、そのまま自分の中に留めておきたくなかったのかもしれない。虚像のまま永久に持っていきたかった。

だが乾はそう思うと同時に全く逆の望みも抱いていた。微かで、すぐに吹き飛ばされてしまいそうな願い。それは乾があの深みに足を差し込まなければ叶うことはない。

今はまだ怖くて、乾はたたらを踏んでいる。

大石は、部員の中に溶け込んで穏やかな表情をしている。それは他人を無条件で安心させ、寄せ付けている。その奥に大事に秘められている黒い塊を、乾は突如ここに引きずり出してみたくなった。















微黒大石。



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